退屈なそして無為な日常を打破する方法

日常を無為に過ごさざるおえないみなさん、そんな人たちに向けてこの記事を書きたいと思う。いま、充実した日々を送っている人たちは、ああそういう考えもあるんだな、と読み流してくれれば構わない。それが正しい時間の使い方というものだからである。会社のくだらないルール=その場においての常識に従って残業させられ、自由な時間を失うことが自分にとって無意味であるようにだ。

会社では仕事に追われ、人間関係で傷つき、疲れて果てている現代日本の人たち、そんな日常において私たちがやるべきことはなんなのだろうか。
その答えは簡単ではないだろう。だが、簡単ではないだけであって不可能ではない。
不可能でなければ、きっと答えがあるはずだ。

しばらくそのことについて考えていて、一つの結論に達した。それは、どんなことに対しても常に疑い、疑問を持つことである。
疑問を持つことは、まず現実世界をただたんたんと受け入れていた自分から解き放ってくれる。その疑問を調べ解決することで問題解決能力を向上させることができる。

この能力が上がることで、次第に先が見通せるようになる。なぜなら問題を解決するためのプロセスはある程度限定されているからだ。別々の問題でも解決のための手順が似ている場合は多々ある。その時この能力が生かせる。

そして仕事がスムーズに進むようになれば、残業も少なくなり、自由な時間も生まれる。万々歳というわけだ。

この方法を聞いたみなさんは、貴様は友達、家族まで疑って生きているのかと呆れられると思うが、実際のところそのとおりである。身の回りの全ての事象を疑って私は生きている。

だが、それでは明らかに息苦しいので普段からレベルを設けて生きている。例えば親愛の情から発せられた行動は疑いを持つことがない。
疑いを持つかどうかは悪意を持って書いているかということに、私の場合、由来する。悪意を持った文章は明らかに違和感を感じる。また言動でも同じことが言える。
それは、おそらく騙そうとして数値をごまかしたり、言葉をごまかしたりする不自然から来るものだろうと私は推測する。


疑問を積極的に持つこのアイデアは昔に比べて圧倒的に活用しやすくなってきている。なぜなら昔は疑問に思ってもすぐに調べることが出来ず、忘れてしまうのが常であったからだ。
現在は違う。私たちには全世界の情報にアクセス出来る文明の機器を持っているではないか。
そう携帯電話である。これさえあればいかなる状況においても調べることができる。またその情報を半永久的なものとしてメモとして保存することも可能だ。なんと便利になったものか。
携帯電話とインターネットが普及した今だから簡単にやれる方法なのだ。