百年の孤独 書評と感じたこと

先日、大学の図書館で前から読みたかった、ガルシア・マルケス著『百年の孤独』を手にとっていた。

期待に違わずその出来栄えは素晴らしかった。
活字でびっしりと埋まっているはずなのに、すらすらと読み進められるこの文章の上手さは非常に驚かされた。
なぜなら、昔の作家というものは読みづらい文章しか書くことができないと思っていたからだ。

もちろん偏見だっていうことはわかっているよ。
実際、そうでない作家も私は何人も知っている。

しかし、現実に読みづらい作品がたくさんあることもまた事実なのだ。ドストエフスキーしかり。

それらは、改行がないからという理由で読みづらくなっているわけでない。
彼らが単純に読みやすい文章を書こうとしていないからだ。

文学性と読みやすさを両立することは可能だ。だが、昔は読みやすさがそこまで問われなかったのだろう。
それには、そんな高尚な文学が理解できる人が少なかったことが一因だと思う。
限られた人間たち、例えばその当時ほとんどいなかった大学生や大学教員、研究者、知識人などがそれらを読んで評価をつけていたのだろう。彼らならば、それらの難解な読みづらい文章でも最後まで読むことができる意義と忍耐力を備えていたと推測されるからだ。

大衆性が今の時代必要になり、そこで初めて読みやすさというものが考慮されるようになったということだ。

そんなわけで、『百年の孤独』が読みやすかったことに驚いたのだった。

この本を読み進めた上で感じたことは、登場人物たちの力強さだ。
彼らは森を切り開き、町を作った。
それから町が発展していく過程でさまざまな出来事が起きるがそれでも何度でも立ち上がる姿勢に僕は感動すら覚えた。

挫折を味わい、子供の死に直面し、それでも立ち直る。その姿に人間の強さを感じるとともにこれこそが今の人間に足りないものなのかもしれないと思った。


さらに、女性の強さを感じた。
初めの町への入植者世代である、ホセ・アルカディオ・ブエンディアの妻であるウルスラ・イグアランにだ。
彼女は積極的に他人の子供を自分の手で育てた。自分の子供達が大人になって自分の言葉を聞かなくなっても常に母として彼らに向き合った。そしてどんなときも母として振舞っていた。
また、年老いてからも多くの赤ちゃんを引きとって育てた。

それに比べて今の女性たちは貧弱なような気を感じる。たった一人か二人の子供でさえも時には嫌になり、虐待する輩までもいる。
明らかに彼女たちは弱くなったのではないかと思う。母としての誇りと強さはどこへ行ってしまったのだろうか。