ライトノベルを書くことは作者のオナニーでは絶対にない

ライトノベルは作者のオナニーに過ぎないと言われることがある。作者が自分がこんなことをしたいという理想やヒロイズムを登場人物にやらせているのだからというのが理由だろうと思う。

誰もが頭の中で描く妄想。それらの中では自分では決して出来ないようなことを登場人物達が容易に、また時には壁にぶち当たりながらやっていく。その妄想を作家達は文章として文字に起こすことで万人に理解可能な形とする。


一つの物語を完結させこの世に産み落とすのには数多の困難が伴う。作家達は日夜、命を削りその作業を行っている。痛みに耐えながら。それほどの苦労を経て生み出された作品が作者のオナニーであろうか、いやそんなことはない。そのような言葉を発したことのある全ての人間は、全ての作家に謝罪するべきだ。


そう、作品とは程度の差こそあれ作者が身を削り読者のために作り出した物などである。読んでもらう人に楽しんでもらえるように様々な工夫をする。いらない部分を省き読みやすくしたり、表現を直すことや構成にまで手を加えたりする。


そうした過程を経て世に出たライトノベルは、以上の事実から分かるように自分の欲求を満たすための自己完結のオナニーとは違う物だ。強いて言うならば読者とのセックスとでも称するべきだ
相手と一対一で繋がる思いやりの賜と言えるセックスは類似している行為だ。ライトノベルの場合、相手は多数だが。

オナニーではなくセックスと今度からこう言ったらどうだろうか。名案だと思うのだけれどどうだろう。






【補足コメント】
なにやってるんだろう、僕。まあいいや、たまにはこんな記事も。これからこのブログが18禁化することは当然ながらありません。時代の波に乗ってクリーンかつエコなブログであり続けます。
松来さんが結婚するまでは。