ライトノベルのキャラクター主義は日本の集団主義に対する反抗か?

ライトノベルにおいてはキャラクターというものの個性が大事だと言われます。より個性的なキャラクターを作ること、それが必要だとも言えます。ダ・ヴィンチではこれを一般文芸に導入し、なおかつ若年層向けに限定していない小説をキャラ立ち小説と呼んでいました。


ラノベとも違う! 今人気の“キャラ立ち小説”とは? | ダ・ヴィンチ電子ナビ
「キャラクター立て小説」のイメージ - REVの物置::Group::Grev - grevグループ


ネーミングセンスはともかくとして(自分でつけても多分似たような感じになるから)、キャラクターを立たせることをキャラ立ちとでもいいましょうか。この言葉は、漫画などでも広く使われているような「キャラ立っていないね」みたいなことと同じ意味でしょう。それぐらい広く使われているということです。


それが今になって一般文芸で人気になるというのは、少しライトノベルや漫画から距離を置いていたということなのだと思います。悪く言えば置いてきぼりにされていたということですかね。それが悪いとかいいとかいう問題では無いですが。


その理由として、現実世界との距離感があると考えます。ライトノベルや漫画よりもより現代社会に近い分だけ、トリッキーなキャラを書けないでいたというのが推測です。対象としている日常の扱いの違いです。ライトノベルや漫画では、現実社会の日常に意図的に似せようといったことはあまり見られません。作者の理想の世界の日常を構築することが、一般的です。一方で、一般文芸ではどこかこんなキャラいないだろうと判断して、トリッキーな部分をそぎ落としていき、最後に残ったのはどこかで見たようなキャラということです。


もちろん例外は多数ありますが、大勢としてそういうことかなと思います。それは、テレビとかのドラマでも同じ事です。変わった職業を主題にしてドラマを作っても、どことなく既存のキャラに性格や性質的に似てしまう。殻をかぶっただけ。そういう現状があるなかで、漫画などに原作を求めることは単純な打開策とはなっても、オリジナル作品では目新しさはでないままです。


その根底にあるのは、日本の集団主義だと思います。人の顔色を疑い、できるだけ浮かないようにしようとする。これは日本だけの問題ではなくて世界的なものですが、特に日本ではその傾向が強い。みんな誰かに合わせることに心のなかでは疲れたなという感じでしょう。それを癒してくれるのが、ライトノベルなどのキャラクター小説です。


自分を包む偽りの殻を読んでいる間、解き放ってくれる。そういう作用があります。漫画でも同じ事です。


それは、単純に火を出したりする特殊能力に限った話ではありません。もっと性格的な面で現実世界にはいないようなキャラクターがたくさんいます。例えば「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」の主人公、比企谷八幡。


誰かに合わせて、周囲から浮いていないように頑張る人たちを尻目に、ひたすらに一人で自分の楽しみを貫く。これは合わせられない負け惜しみでもなくて、彼自身が考えた結果であり、強さであると思います。


世界の常識的な論理的にはまちがっているかもしれませんが、そんなことどうでもいいことです。個性なんですから。公共の倫理も犯してませんしね。


そういうことで、キャラクター主義は、既存の集団主義への反抗かなという趣旨のエントリでした。将来的にサマーウォーズで描かれていたような仮想世界の更に先、現実世界がバーチャルによって飲み込まれることが起こるとしたならば、リスクを伴わなくなり、もっと生きやすい社会が出来ると思うのです。ここでの飲み込まれるという意味は、現実よりもバーチャルで大半を生活する人が過半数を占めるということです。そうなると、アカウントを消してリセットとか、半匿名社会でやられていることが一般的になるはずです。そして、思うように行動できるようになると。

そんな妄想でした。